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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [4]




「サナちゃん、もうやめとき。また怒られるよ」
「そうだよ、また呼び出されて叱られる。これ以上有給取り上げられたら困るでしょ」
「休みなんて無いようなもんだ。そんなの構わん」
 栄一郎を睨んだまま呟く。
「用があるならサッサと言えよ。アタシ達は明日も仕事があるんだよ」
「だったらこんなトコロに(たむろ)ってねぇで、サッサと寝ろよ。おっ、そうだ。お前、ちゃんと便所の掃除はしたのか? サボってんじゃねぇだろうな?」
 その言葉に少女は奥歯を噛み締め、無言で窓をピシャリと閉めた。栄一郎はカッと頭に血が上ったが、窓を開けることはしなかった。脳裏には、眠っている少女の片腕の映像がこびりついていた。
 あれは。
 翌日、職制を呼び出し、あの少女を呼んでくるように命じた。一人でも欠けると生産が遅れると渋る相手を権力と立場で横柄に説き伏せ、少女を呼び出した。
「何かご用ですか?」
 言葉遣いが態度と一致しない少女の髪を、微かな風が揺らしている。少し蒸す辺りに、木々の陰は心地良い。
 工場の裏の田んぼを突っ切った、神社の境内で向かい合った。栄一郎は石段の最上段に腰を掛け、少女は下から見上げた。
「昨日のは何だ?」
「何、とは?」
「惚けるなよ」
 口元を歪める。
「あの女の腕、見たぞ。あれはヒロポンだろ」
 少女は視線を落とす。
「工場管理者の一員として、中毒者を置いておくワケにはいかねぇな」
 その言葉に、少女はパッと顔をあげる。
「強制したのはそっちだろうっ」
 右足を一段目に乗せ、身を乗り出す。
「アタシ達は嫌だって言ったんだ。無理矢理クスリを打つのはそっちだろう」
「なに?」
「彼女はもうずっと体調が悪いんだ。二月に風邪になって、でも休ませてもらえなくって、それで体調が悪化して、生理でも休ませてもらえなくって、フラフラになるまで働かされて」
 拳を握り締める。
「ついには倒れて、これで病院に連れて行ってもらえるだろうって思ってたら、ヒロポン打たれて」
「はぁ?」
 ワケがわからなかった。栄一郎にはワケがわからない。
「クスリなんてその場しのぎにしかならないのに、体調を悪くするだけなのに、そんな事はアタシ達にだってわかるのに、それなのに職制はヒロポン打って働かせる。まるで兵隊さんのようだ。戦場で打って特攻させられるみたいだ」
 栄一郎は父親から聞かされていた。工員は無能だ。怠け者だ。いつも楽をする事しか考えていない。いかにサボるか、いかに楽をして生きていくか、遊びながらお金を稼ぐ方法ばかりを考えている。そんな輩の言いなりになってはいけない。甘やかせばつけあがるだけだ。
 そう聞かされてきた。
 嘘だ。クスリを使ってまで工員を働かせているだなんて、そんなのは嘘だ。ヒロポンは数年前に法律で禁止された。もう薬局にも置かれてはいないはずだ。そんなモノは日雇い労働者などが闇で使用しているにすぎない。自分の工場の人間が手にする事などないはずだ。万が一、もしも、もしもそれが本当であったとしても、それは。
「それは、お前たちが事あるごとにサボろうとするからだろう? ちょっと体調が悪いからってすぐに休ませてくれだとかって、甘いんだよ」
「熱でフラフラになって倒れるまで働いて、それでもサボりだって言うのかよ」
「っんなモン、自己管理ができてねぇからだよ。しっかり睡眠取って、しっかり食ってりゃ、倒れたりなんてしねぇよ」
「仕事が終わった後も、風呂掃除や工場内の掃除、洗濯までさせられて、食事だってまともにおかわりもさせてもらえなくって、おかずはたくあん二切れだけで、味噌汁は大根と人参の皮だけで、それでどうやって腹一杯になれって言うんだよっ」
「お前らみたいな女には、それで十分なんだよ。力仕事してるワケでもねぇのに、贅沢言うな」
「だったらお前、一度やってみろよ。工場の仕事がどれだけのモンか、知ってるのかよっ!」
 少女は石段を駆け上がり、栄一郎の前に立ちふさがった。その威圧感に、思わず立ち上がった。
「何も知らないクセに」
 耳など貸すな。信じてはいけない。
 栄一郎は父親から繰り返し聞かされてきた言葉を脳裏で反芻した。父親に反発しながら、それでも父の比護から抜け出す事のできない青年が頼れるのは、やはり父親の言葉しかない。
 必死に相手の瞳を見返した。だが、向けられる視線は圧倒的で、情熱的で、退かずにその場に留まるのが精一杯だった。見下ろしているのは背の高い栄一郎の方なのに、なぜだか自分の方が見下ろされているかのような錯覚。
 こんな、こんな小娘なんかに。
 必死で睨み返す。
「神埼さんのクスリの事、訴えるなり告発するなりしたければすればいい。そうすればアンタ達工場の人間がどれだけ非道な奴らかなのかを他の人にも知ってもらう事だってできる。工場の外の人たちにも知ってもらうことができる。こちらとしては願ったりだ」
「なにをっ」
 見下(みさ)げているのに、見下(みくだ)されているかのような屈辱。
「中学しか出てねぇ能無しのアマが」
「何も知らないのはお前の方だ」
 吐き捨て、少女は踵を返した。
 あんなのは大嘘だ。保身のためなら平気で嘘をつくロクでもない貧乏人のホザいた戯言だ。
 大股で自宅へ帰った。夕食後に父に尋ねた。工員にヒロポンを打って強制的に仕事をさせているのは本当かと聞いた。父親はジロリと睨みあげた。
「誰から聞いた?」
「ちょ、ちょっと、そこいらで」
 その威圧感にたじろいだ。そんなものはデマだと、あっさり流されるかと思っていた。
「そんなものはデマだ」
 思った通りの言葉が返ってきた。だが、思ったような対応ではなかった。
「誰に聞いたのかは知らんが、そんな噂など信じるな。大方、怠け者の工員にもで吹き込まれたんだろう?」
「別に、そういうワケじゃ」
「誤魔化すな。知っているぞ。お前最近、女子寮に忍び込んでいるらしいな」
「それは」
「またくだらない問題を起こして私に恥をかかせるな。女は選べ。あれらは女じゃない。ただの労働力だ。私たちとは身分が違う」
「別にそういうワケじゃ」
 栄一郎の反論になど耳を貸そうともせず、父親は息子を部屋から追い出した。
 何が、本当なんだ?
 栄一郎は、父親が好きではなかった。工場の跡取りという立場も気に入らなかった。こんな田舎など飛び出して、東京で、大都会で若さを謳歌したいと思っていた。
 だが、今の身分を、捨てようと思ってはいなかった。
 自分は上流階級の人間で、下層民よりも立派で正しくて素晴らしい。だから、そんな立場の人間が、間違いなどをするはずがない。自分と同じ立場の人間が、理不尽な行いなどをするはずがない。
「栄一郎さんは立派な御方だわ。私はちゃんと知っているのよ。お父様だって本当はそう思っていらっしゃるはず。ただ口に出してはなかなか言う事ができないだけなのですよ」
 息子を溺愛する母親からは、いつもそう言われている。少々鬱陶しいとは思いながらも、その言葉は栄一郎には心地良い。
 俺は何も間違ってはいない。間違っているのは工員の方だ。あの女だ。あの女が俺を騙そうとしている。
 元凶はあの女だ。必ず尻尾を掴んでやる。



「ワシは心のどこかで、父親に認められたいとも思っていたのかもしれん。だから、彼女の悪の所業を見つけて、戦果を上げたいとでも思っていたのだろう」
 緑の眩しさに目を細めながら、栄一郎は車椅子の肘掛を撫でた。



 翌日も女子寮の敷地に忍び込んだ。少女のトイレ掃除を覗き見、寝るまで見張った。職制に言いつけ、仕事中に彼女が何かヘマをしたり、サボろうとするような態度を見せたらすぐに知らせるように命じた。
 そんなある晩の事だった。
 いつものように女子寮を覗き込んだ。トイレ掃除の任は解かれていたので、少女は自室にいるはずだった。部屋はすでに知っている。だか、彼女の部屋は、真っ暗だった。
 もう寝たのか?
 そこから二つ離れた部屋が、やけに騒がしかった。







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